独断と偏見とちょっとしたスパイス 65
細川忠利 ポスト戦国世代の国づくり 稲葉継陽
─戦国に生まれ、江戸に生きたエリートの軌跡─
公式サイトより引用
私が江戸時代を、厳格に言うならば日本近世史が好きになった理由は、
肥後細川藩について学び始め事がきっかけだった。
高校の進路で失敗したまま卒業して、する事無くてぶらぶらしていた時期があった。
その時母に紹介されたのが、郷土史を学ぶ市民講座だった。
肥後細川藩には「手永制度」という物がある。
これは肥後細川藩と細川氏が去った後の小倉藩のみで行われていた地方行政システムで、
郡奉行(郡代)と村庄屋を繋ぐパイプ役として手永役人(惣庄屋)を置かれた。
手永は複数の村々の一挙に纏めあげる役割と共に、村々の世話役や罪人の逮捕、
村への貸付や本庁から発しされた法令の伝達等を行っていた。
その講座では手長会所(今でいう役場)で実際残されていた資料を元に、
地元の江戸時代を学ぶ講座であった。
講義を受けるにつれて、江戸時代は知らない事の連続だった。
後年の肥後細川藩では武士身分の売買(寸志御家人)が行われたり、
事実上の身分制度の崩壊の始まりと捉え、個人的に一番衝撃を受けました。
年貢米がブランド力を持ち合わせた「肥後米」として堂島米会所で販売されたり、
こんな田舎の僻地にまで外国船に関する御達しが下されていたりと、驚くべき事の連続だった。「暗黒時代」と言われる事もある灰色の江戸時代がここまで、鮮やかなで一度足を踏み出したら離れられない複雑怪奇で色鮮やかな世界だと思わなかった。
それから色々あって放送大に行ったのは別の話。
講座は数年前に惜しまれながらも終了してしまった。
でも史学の持つ面白さに気づかされたから、すごく講座には感謝している。
さて今回取り上げる書籍は、
『細川忠利 ポスト戦国世代の国づくり』は、
肥後細川藩初代藩主・細川忠利の生涯を辿ると共に、
元々徳川秀忠の小姓を務めていたエリート・忠利が戦乱の世が終わり、父細川忠興の跡を継ぎ、新しい時代を迎えるにあたって浮かび上がった統治上の諸問題の数々に対して以下に向き合ったのか。また当時の社会通念の中でいかに幕藩体制下において大名は統治システムを生み出すに至ったのか。近世における地方官僚たる国持大名と統治機構の成立について、話を掘り下げていく。
著者の稲葉継陽先生は熊本大学の教授。
永青文庫研究センター長(熊本大学内にある肥後細川氏の文書を保管・研究している部署)も兼任されている。また放送大学熊本学習センターとも関係の深い人物で、定期的にサブレと言われる短期間の面接授業(スクーリング)や公開講座を担当されている。中々時間の兼ね合いもあってサブレに参加できない事は残念に思うが、数年前に医療に関する団体(名前を失念しています。ごめんなさい。)が行ったオンライン公開講座には一度参加させていただいた。その際、死期が迫りつつある事を実感していた忠利があの手この手で延命しようとする様を知り、大変驚いた記憶がある。
細川忠利(1586~1641)は細川忠興の三男にあたる。
母はあの有名な細川ガラシャ夫人。祖父は細川幽斎と大変我の強い一族の生まれである。
また少年時代は徳川秀忠の小姓を務めた経験から幕府との強い繋がりを持った人物であり、その関係性から「模範的な大名像」を天下に示すべく奮闘したエリート大名と言い切ってもいいだろう。面白い逸話としては、ローマ字の印鑑を文書内で利用していたり、ワインの醸造を家臣に命じていたという事だろう。おそらくワインの製造させた日本で最初の人物ではないだろうか。また鎮静剤としてアヘンの製造も行っていたりとする。もし日本が鎖国政策を取らずに開国していたら熊本は今よりも異国情緒にあふれた街になっていたのかもしれない。この辺はガラシャ夫人の影響も多い感じさせる一幕だ。
大島明秀 著 2019 — 細川家のローマ字印文書二種. -熊本の歴史資料(二).
400 年前の国産ワイン醸造の詳細が明らかに
―永青文庫史料の研究調査により薬用アヘンの製造も確認―
本書のテーマは「細川忠利の生涯と近世初期の社会形成」にあると思う。
鎌倉幕府の成立以後数百年に渡って度々紛争を続けていた日本。
極度に混沌と化した応仁の乱以降のおおよそ100年に渡る「戦国」と評された戦乱期は、大坂の陣の終戦に伴い終わりを告げた。「戦国」期に生まれ、近世初期に活動した大名たち・「ポスト戦国世代」は、戦乱や圧制によって荒廃した土地を復興・開発し、幕藩体制の強化と平和を維持するという新たな使命が下ったのである。
そもそも「殿様」と言われるイメージ的って、
- 人々に好き勝手命令できて。
- 下々の人々の生殺与奪を握っている。
- 真に自由な人。
- 権力のアナーキー。
そんな印象を受けるだろう。
しかし実態は違う。
大衆には、主に百姓階層には中世以来の強固な村共同体が形成されている。
古い本で申し訳ないが1977年に発刊された横山十四男著『百姓一揆と義民伝承』によれば、天正18年から明治4年までの281年間で起きた一揆は3156件と言われている。「一揆」と言ってもその形態は様々で、島原・天草の乱の様な激しい武装蜂起から嘆願書の提出と言った比較的緩やかな抗議活動まである訳だが、この様に日本各地の村々は自身の不満に対して反発し何らかのアクションを起こせる程に高度に組織化されていたと考えるのが妥当だろう。
そして近年の研究により「刀狩り」は徹底した農村部の武装解除では無く、戦乱による身分制度の曖昧さを是正し、人々の各階級を厳格に定める事だと考えられている。事実肥後細川藩においても百姓の帯刀が認めれていた。
また村々には小領主・地侍がいた、彼らは自身の利権を保全する為にも村庄屋になるケースも多かったし、戦国期には大名家の元で従軍しているケースもある。つまり実戦経験や戦争のノウハウを持った人間が村々にいて、もしも統治に失敗は即ち一向一揆の様な激しい武装蜂起を招くリスクを、少なくとも江戸時代初期の大名は抱えていた訳である。
この緊張感は凄まじいものだろう。
つまりいうほど自由に出来なかったのである。
忠利は手永制度を構築とはまた別に目安箱を設置して広く情報を集めた。
百姓から様々な「迷惑」が上がる。本書より引用する。
「迷惑」とは、百姓が運営に支障をきたして、その生活が領主による「御救」を必要とする状況を表現した前近代の公的用語であり、中世から盛んに用いられた。百姓を迷惑させない支配を実現することが、この時代の大名・領主が果たすべき責務だと考えられていたのだ。細川忠利 ポスト戦国世代の国づくり 稲葉継陽 P60より引用
この様に様々な「迷惑」が村々より浮かび上がった。
手永を担う惣庄屋に不在から年貢率に是正、夫役の賃金に対する不満。
また目安箱で面白いものでは、朝鮮より渡ってきた焼き物職人からの投書で、
焼き物を20年焼いてきたが売れないので家族と本国朝鮮に帰りたいと言ったものも。
(元和9年の投書なので、日本に来たのは1603年頃か。)
江戸時代は過去から比べると遥かに豊かになった時代とは言え大勢の人が自然災害や飢饉により亡くなった。忠利統治下でも度々災害や飢饉が発生し、その対処を行っている。また給人地(家臣の武士の保有している土地)における家臣の恣意的統治の抑制。特に給人の実力行使を厳禁としている。それと並行して父忠興の治める隠居領3万石と忠興家臣団が忠利家臣団と対立する中でその対応に苦慮する。
数々の問題に対して忠利は、
「村ー手永ー郡ー奉行所ー家老衆による合議ー当主による裁可」と
段階的に問題を解決できるシステムを作り上げ、問題に対処した。
ここに戦国以来の当主による強力なカリスマ性によって支えられていた大名家は、
極端に言えば当主不在でも問題解決が出来るほどにシステマチックに再編された。
ここがポイントでもある。戦国期から近世初期は家臣は当主個人に忠誠を誓い、当主死亡時には殉死が平然に行われていたがその忠誠は、当主から家へと近世からは移る事になる。
つまり大名家は武士の会社になり、給料をもらうサラリーマン・侍になったのである。
(ちなみに武士と侍の違いは、給料あるか無いかと言われている。)
そして、行政の発展に伴い「私なき支配」がより洗練されていく事になる。
また個人的に面白かったのは、加藤家末期の熊本の惨状である。細川家は転封になる前の熊本が荒れていた。よく加藤家の改易は幕府の陰謀との風説が強いが、それを書籍内では否定している。加藤清正は熊本におけるアイコン的存在である一方で、その子加藤忠広治世下における熊本城の荒廃や農村行政の弛緩。そして忠広本人が酒におぼれ、尋常ではないと伝えられていた。加藤家というと加藤清正のイメージがあまりにも強すぎるので、この辺は大変興味深く読ませてもらいました。
島原・天草の乱における幕府の初動の遅さに対する忠利の怒りをにじませる書簡も興味深かったが、一番目を引いたのが父・細川忠興との対立。忠興・忠利との書簡のやり取りは密接だったのは有名な一方で、対立もまた根深いものだった。忠興は忠利家臣団を明確に憎んでおり、忠利も忠興を警戒していた。忠利死後家臣団から光尚に出された起請文には、決して忠興家臣団には情報を出さない事を誓う旨を書いてあり、その対立の根深さは想像以上だった。古文書の先生が細川忠興滅茶苦茶ディスってのだけど、それが十二分に理解できました。細川忠興って多分友達だったら面白いだろうけど、家族相手だといきなり「政治」始めるよね。何なの。
個人的な疑問として、八代城は結局松井家が治める事になったけど、
結局松井家は3代目で細川忠興の六男・寄之が養子となり後を継いだ。
そして、忠興が溺愛していた四男立允の子・行孝が宇土支藩を立藩した。
忠興、忠利の対立構造は次世代にも引き継がれたのか。
つまり光尚、寄之、行孝家臣団でも対立していたのか。その辺は気になります。
私達は歴史的必然かのように江戸時代は平和だっと思いがちであるが、
その裏で大名家が以下に新しい統治を模索していたのか考えを及ばなかった。
細川忠利の生涯を通して旧来の統治からより洗練されていくと共に、
忠誠か当主個人から大名家へ。武士から侍へ。時代の変革を意識させられた。
戦国期という混沌の時代の終焉と秩序の再構築。戦争の終わりと天下泰平。
ここまで時代の大きな変化を肌で感じやすかった時代はあまり無いだろう。
中世から近世への社会変革について、私はもっと学びたいと思いました。
そして肥後細川藩の歴史ってやっぱり面白いね。
公式サイト
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