独断と偏見とちょっとしたスパイス 89
関心領域
─立場は領域を生み、関心はそれに従う─
フィルマークスより引用
最近私は一つの問について考えている事がある。これは例文だが、A国が現代進行形で一般市民に対して無差別なジェノサイドを行っている。それに対してSNSのユーザーBがSNSを通して反対運動を行っている。またそれと並行してユーザーBはSNS上でA国を抗議しないユーザーを無関心として批判している。ユーザーBは自分に同調しない者や他国の悲劇をそっちのけで日常生活を投稿している他ユーザーに対して強い怒りを表明し、その批判は日に日に語気を強くしている。しばらくたち、この無関心さに対する軽蔑から、抗議活動に参加しないユーザーとは距離を置き始める。リアルでも繋がりのある友人やネットで今まで繋がりがあった人達と距離を置き、抗議活動を続けていく。
これは実際にXでその様な例を私は観測した。もちろんA国の行っている行動については私もおかしいと思っている。ただ一方で、SNSで抗議の意志を示さなければ敵位の勢いで著名人に対して攻撃している人もいて、その活動には危うさも感じている。抗議をする事自体は我々が持っている権利で、その残虐性は抗議されるべきものだ。ただ一方で抗議に参加する様に圧力をかけ、相手の私生活や思考を思いやる事も無く一方的にSNSで連帯を訴える方法は思考停止だし、全体主義的に感じ恐怖を覚えた。結局のところ「正義と自由」の問題なんだと思う。国家権力による暴力は否定されるべきだし、それが例え異国でもそうだろう。それが正しい。だけど一方で各人の政治に対するスタンスは自由であるべきだし、意図的、恣意的に関わらず政治には参加しない自由も保障されるべきとも思う。正解の無い問だけど、一方で自分はこういった問題に対してどのようなスタンスで臨めばいいのか考えが未だ纏まらない。
今回は『関心領域』を取り上げる。本作は、イギリス・ポーランド・アメリカの三国による共同制作の映画で、イギリスの作家・マーティン・エイミスの同名小説の実写化している。舞台は第二次世界大戦のポーランドにあった絶滅収容所・アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所。世界遺産として登録されている悪名高き場所で、無数の人命が失われた殺戮現場である。そこで初代所長に選ばれ、収容所の立ち上げから虐殺までの一連の流れを完成させたのがルドルフ・フェルディナント・ヘス。彼は実在の人物で親衛隊の将校だ。
アウシュヴィッツの所長・ルドルフは妻と5人の子供に恵まれ、収容所の隣にある豪邸で何不自由なく生活を送っていた。豪邸にはポーランド人の使用人。広い庭。所せましと植えられた花。プール。熱帯の観葉植物の為の温室までもが完備されている。家の近くには川が流れ、川遊びで余暇を楽しむ事ができる。森に入れば、ベリー系の食べ物が実り、森の恵みが生っている。まさに理想の田舎暮らしがそこにはあった。隣にアウシュヴィッツ収容所のある事を除けば。常に銃声や軍用犬の唸り声が響き渡り、犠牲者の叫び声や悲鳴。看守の怒号も聞こえてくる。庭からは犠牲者の遺体を燃やしている焼却炉の煙や炎が立ち込めている様子がよく見えた。特徴的な匂いもある。そんあ異常な空間でヘス家族は他のドイツ人と変わらない日常生活を送っていた。子供は学校に通い、専業主婦の妻が家事を取り仕切り、夫は出勤し仕事をこなす。そんなヘス家族の生活を淡々の描いた。
「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし(蓋し=思うに)大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを。」 Wikipediaより引用
ルドルフ・フェルディナント・ヘスは最終的に絞首刑に処された。刑が執行される直前、彼は上記の手記の残したとされる。この映画においてヘス家族を特別視する事も、フィクションの様に残虐な家族として誇張される事もない。まるで彼が残した手記の様かの様なアプローチで、何気ないありふれた家族として描かれているからこそ、ヘス家族の異常性がより際立っている。しかし視聴者が感じたその異常性は、SNSが発展した現代社会への強烈な風刺となっている。SNS上では様々な問題があり、提示されている。中には残酷な写真も上げられ、共有されている。しかし、関心からそれてしまえば、そんな世界の残酷さからは無縁でいられる。作中ルドルフの妻は収容所で行われている惨劇についておおよそ把握している一方で、ユダヤ人に対して同情を抱く訳でも無く、何なら犠牲者から略奪した物を再利用している節まである。ユダヤ人に起きた悲劇よりも、ルドルフの転勤による引っ越しの可能性や今目の前にある豊かな暮らしが出来なくなる不安にしか関心を持ち合わせていない。アウシュヴィッツの全容を知っている現代人だからこそ異常の様に感じるが、目の前の生活に追われている我々と何も変わらない。むしろ様々な社会問題がスマホを媒体に常日頃から提示されている今だからこそ、この風刺はよりグロテスクに、そして社会への強烈なカウンターになった。
物語としてはストーリー性が乏しく、娯楽映画の様に起承転結は無い。また前衛的な表現が用いられている場面もあり、全体を通して淡泊な印象を受ける。作品から連想したのが大分の麦焼酎二階堂のテレビコマーシャル。あの空気感が自分が今まで見た作品の中では一番近い様に思う。画が美しくて、一方で哲学的な文章は見る人をどこかノスタルチックな気分にさせる二階堂のコマーシャル。あの個性をこの映画からも感じた。しかし、淡泊であってもつまらないという訳ではない。画の美しさと強烈な風刺と相成って、最後まで見入ってしまった。またこの映画では音声にも注目してい見て欲しい。画の素晴らしさと一方で、家族の日常生活のシーンの時にすら銃声は絶えず聞こえる。ルドルフの子供達が楽しそうに遊んでいるシーンでも銃声は決して止まない。昼間は軍用犬の吠える声も響いている。家族の何気ない会話シーンの合間もユダヤ人の犠牲者の叫び声や断末魔。看守の怒号も聞こえてくる。本作では直接的にユダヤ人が殺害される描写は作中には無く、ユダヤ人受刑者が登場するシーンも限りなく少ない。ここで何が起きたのかあえて間接的な描写で描かれている。この様に観客の想像力に委ねる形を取ったからこそ、気色悪くなる様な不快感を与えるのだと思う。
この映画を見る切っ掛けになったのは、去年日本で劇場公開された折に見かけたXでのポストが切っ掛けだった。そして今年にはAmazonプライムで配信されている事を知ってチェックした。私は見て良かったと思う。ジェノサイドの加害者側ってどうしても誇張されがちで、生まれながらの邪悪として描かれる事が多い中で、ありふれた一つの家族としてルドルフ・フェルディナント・ヘスとその家族を描く。というアプローチは結果として風刺としても完成度が高く、ジェノサイドの実情を描いたからこそ、ジェノサイドに対する解像度が上がった。誰にでも、例えそれが家族の父であってもジェノサイドは実行しうる。目の前の生活を守る為に、ジェノサイドに加担する事もある。悪魔でも、怪物でもない感情を持ったただの人間がジェノサイドを遂行できる。この事は覚えていた方がいいだろう。また音声にも注目しながら、この映画を見てみて欲しい。ジェノサイドを間接的に描きながらも、グロテスクな描写に強い不快感を抱くはずだ。ラストカットの直前には、現代のアウシュヴィッツで展示品を清掃員が掃除している様子が挿入されている。そこには犠牲者の写真や山の様に積まれた靴が映る。身の毛がよだつ様なルドルフの行動の結果がここに摘み上がっていた。一方で観客はルドルフを理解してしまう。何なら感情移入すらするかもしれない。生活を守る為に、自分の行いに嘔吐しながらも職務に戻るとするヘスとそのラストカットは、現代のサラリーマンに通ずるものがあるからだ。ジェノサイドに対するこのアプローチは、二度と忘れない映画体験になったと思いました。
公式サイト
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