甲斐党戦記 荒木栄司 

2022年6月17日金曜日

熊本出版文化会館 栗崎英男 荒木栄司 読書 肥後戦国史双書 歴史書

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 独断と偏見とちょっとしたスパイス 19 



甲斐党戦記  荒木栄司  
─乱世ともに帰還し、乱世の終焉と共に去った氏族。─




「熊本出版文化会館」より引用






戦国期の肥後は混沌としている。島津、龍造寺、大友が覇を競い合い、
その有り様から九州三国志と評された九州において、熊本は緩衝地帯であった。

大名クラスの国人衆はいるが覇を競える群雄が生まれなかったこの国人は、
集合離散を繰り返しながら自身の生存を図る事となる。


そんな戦国期から時を戻す。
甲斐氏の始まりは鎌倉時代。大体元寇後ぐらいまで遡る。

菊池10代目当主だった菊池武房の死去後、
菊池武房の長男隆盛の子時隆武房の子武本の間でお家騒動が起こった。

一度は鎌倉幕府の裁定により時隆の相続と決まったが、
それに納得できなかった武本が時隆を襲う。結果は相打ち。両方死んでしまう。

家督は結局時隆の弟武時が継ぐ事になり、
武本の子武村は肥後を去り甲斐の国へと渡った際、国名から甲斐と名乗る事になった。

そう、これが甲斐氏の始まりである。
菊池家から分かれた甲斐氏も、また名家の出であったのである。
(意外と元は菊池家だった家はある。米良氏とか)
そして、この本の主役の氏族だ。

一度は甲斐の国へと去った武村の子、重村は南北朝の動乱期に九州へと帰還し、
菊池本家と戦うがまた敗れた。


日向へと落ちのびた重村は高千穂の三田井氏を頼る。
また重村一族の一部は土持氏の家臣となった。

(異説あり。武村が土持氏の婿になり、その子孫の重村が三田井氏を頼ったとも。)

そしてここから甲斐一党は複数に分かれていく事となる。
ただしこの辺の家系図には不明な点も多く、その系統はわからない事も多い。


南北朝時代から阿蘇家に仕えた黒仁田氏という甲斐一党もいるが、

主な潮流は3つ。

  • 高千穂の領主、三田井氏の重臣として日向に残った系統。
  • 甲斐一党の中でも一番の知名度を誇る御船甲斐氏。
  • その御船甲斐氏と激しく対立を続け、複数の合戦に至った隈庄甲斐氏。

日向に残るものと、肥後に進出したものに分かれた一方、
彼らは中世にかけて大きな活躍を見せる事となる。


さて、熊本に進出した甲斐氏。
その理由には阿蘇氏の内紛がかかわってくる。

元は阿蘇神社大宮司だった阿蘇惟長が大友氏の支援の下、
菊池家の家督を継ぎ菊池武経を名乗った。
(当時の菊池当主・菊池政隆(菊池家直系)を滅ぼし、切腹に追い込んでいる。)
そして、弟の惟豊に大宮司の職を譲ったのはいいものの、
菊池家の権威は失墜し家臣団は独立傾向が強い。
面白くなかった惟長は一部の家臣や島津氏の支援を受け、惟豊を攻撃する。
ここに阿蘇氏が30年近く争う内戦が始まってしまった。

そして惟豊は敗れ、高千穂まで落ち延びたが、
そこを救援したのが御船甲斐氏。甲斐親宜(甲斐親直(宗運)の父にあたる)。
その知略で惟長とその子惟前勢力を一掃した。
惟豊はそれに報いる形で御船の土地を甲斐氏に下した。ここに御船甲斐氏が始まった。


隈庄甲斐氏については不明な点が多いが大友氏与えられたという記述が残る。
肥後にいつ来たのか、正確な記録は残っていない。
甲斐親宜の従妹にあたる甲斐敦昌が隈庄で死に、その子親昌が隈庄を与えられたという。



この本は、資料の多い甲斐親直(甲斐宗運)を中心に、
混乱が続く乱世の情勢の中で甲斐氏が以下に活躍し、
そして滅び、消えたのか。その軌跡をまとめたものになる。
その関係で、隈庄甲斐氏と日向甲斐氏の記述はわりと少なめ。
それだけ資料が少ないの考えるべきだろう。

30年ほど前の古い歴史書なので、
著者紹介のページには電場番号と家の住所まで書かれている。昔の歴史書あるあるだ。

少し脱線するが、この本を最初に見つけたのは、地元の図書館。
甲斐氏の書籍があることに衝撃を受け、早速借りようとするが貸出禁止で借りれず。

次に古本屋で見つけたが、定価の2倍の3000円。さすがに手が出ずに退散。

そして、熊本市上通にある金龍堂まるぶん店にて新品を手に入れるに至った。
こんなマニアックすぎる郷土史本を置いてくださった
金龍堂まるぶん店さんには感謝だ。


前置きが大変長くなってしまい申し訳ない。歴史本のレビューを書くのはやはり難しい。

簡素にまとめる事もできるが、
この手の本はある程度前情報を入れてから読むべき本だから、
前置きの歴史だけ書く事にした。



さて、甲斐親直が活躍した肥後はもうほんとカオス。

隈庄甲斐氏が入城する前の隈庄城の治安も荒れていて、
目方能登守なる人物が占拠(どの様な手段を用いたのか不明)し、
その後4年程占有していたのである。

大友氏の文書曰く菊池家の残党という話だが、詳しくは不明。
その後の戦闘で城が落城する際に城を脱出し、いずこへと消えた。
年貢とかその辺の行政はどうなっていたのだろう?

どこの勢力も内戦ばかりで、まあもうひどい有様。
しかも、お互い決定打が無いだけに、永遠に戦争している。
肥後というポテンシャルある国でありながら、
群雄が生まれなかった背景には、圧倒的な強者が生まれなかった事に尽きる。


しかし、その中で他国にまで名をとどろかせた人物がいた。
それが甲斐親直(甲斐宗運とも)。

元来大友氏との関係が深い阿蘇氏に従い、阿蘇氏存亡の為に暗躍する事になる。
実質阿蘇氏のフィクサーのポジションと言っても過言ではないではないだろうか。

彼は外交と武勇と粛清を用いながら、阿蘇家存続の為に尽くす事になる。

彼は当時としては異質というか、とにかく武士よりも現代人に近い様に思う。
甲斐親直は大小様々な合戦に参加する。
1552年。三田井氏の家臣であった甲斐党内での内紛に親直が介入。
(経緯は不明。ただし書籍内では三田井氏の兵士か、または高千穂在郷の兵士を動員したと考察されている。)

二上神社の神職を巡って争っていた、
甲斐重久(当時隈庄甲斐氏領主だった甲斐親昌の祖父にあたる人物)と
甲斐重次の争いがやがて武力闘争に発展する。親直は重久派を攻撃。
高千穂に残っていた親昌の弟、鑑昌らと戦った。

三田井氏による鑑昌追討令も下され、
鑑昌やその弟、昌興、武昌は日向山中で切腹して果てた。
この動乱に対して書籍内では、
二階崩れの変に関与した入田氏と親戚関係にあった鑑昌一族が大友氏を敵視していた為に、
大友氏より三田井氏に対して追討すべしと働きがけがあったのではないか。
という考察を書籍内で紹介されているが、
私は正直この考察には疑問だ。

甲斐氏を必要以上に分断させる理が大友氏にあったのか。
という疑問があるからだ。
この辺についてはより研究が進む事を願う。

結果親直は隈庄甲斐氏の一門の多くを結果的に死に追いやった事になる。
兄弟を悉く失った甲斐親昌の痛みは想像できないものだ。
その間隈庄甲斐氏は御船甲斐氏を攻撃しているが敗れた。
これ以降、隈庄甲斐氏と御船甲斐氏の戦いが複数回行われていく事となる。

ちなみに甲斐親昌もこの騒動の後、記録に現れない事から没したと考えられている。
また親昌には鎮昌という幼子がいたが、夭折したと云われる。
つまりこの地点で記録上の隈庄甲斐氏の血統は断絶してしまった。

ここより系譜不明の隈庄甲斐氏の代表者となって、
隈庄甲斐氏として親直の前に立ちふさがる事となる。

おそらくは親昌の重臣クラスだろうが、多くの事は謎に包まれる。

肥後国内でも合戦が続く。
龍造寺になびいた肥後国人衆連合軍との間で起こった1580年の且過瀬の戦い。
島津配下となった相良家当主相良義陽を打ち取った1581年の響野原の戦い。

肥後国で起きた2つの戦いを制した甲斐親直であったが、
一方で島津や龍造寺と言った大勢力には、
独立性を維持する為にのらりくらりと交渉を行う。

既に阿蘇家の領地を侵食していた島津との交渉について書かれたページは面白い。
降伏する立場にあった阿蘇氏なのにも関わらず土地の返還を要求したり、
はたまた島津氏側の要求を無視したり。お祝い事に対しては、
積極的に使者や貢物をしたりと、嫌がらせを始める。

島津氏も困惑していたという。

甲斐親直の交渉術を島津家臣上井覚兼が残した上井覚兼日記を資料としているというから、
わりと信憑性は高いと思われる。

よくネットでは島津は戦闘民族などと言われるが、
わりと辛抱強く交渉を受け付ける意外な一面もあって興味深い。

この時間稼ぎとしか思えない交渉は、
豊臣秀吉の天下統一事業を知っての考えだったのだろうか。


そして、甲斐親直を語る上では外せない。粛清。
御船氏から、黒仁田氏隈庄甲斐氏井芹一党。そして、自分の息子まで
敵と繋がっているものは悉く殺す。
その恐怖政治にようなやり方は、阿蘇氏の汚れ役を一手に引き受けたと書くべきだろうか。

下剋上の風潮の中で忠義には厚く、戦国武士の様な野心は無い。
ただ一方で、裏切り行為を図った味方は徹底して殺す。
戦国時代では当然だが、身内すら打ち取る冷徹さは異様ともいえる。
武将。というよりも20世紀の軍人みたいな、そんな異質さを彼から感じた。



さて、戦国をかけた甲斐氏のその後についてまとめよう。
隈庄甲斐氏は御船甲斐氏に敗れ吸収された。

隈庄甲斐氏は度々宇土の名和氏と協力しながら、
御船甲斐氏と数回の戦いと和平を繰り返すが、
隈庄甲斐氏を裏切った甲斐綾部佐の協力により御船甲斐氏が勝利する。
その後は甲斐親直の娘を夫人としていた甲斐守昌が隈庄城を治める。

(書籍では甲斐綾部佐=甲斐守昌という説を上げている。)
しかし、守昌は親直に反乱を起こした。
親直の持つ刀を欲した為とも、島津氏と内通していた為とも言われるが、原因は不明。

激戦の末隈庄城は開城し、守昌は降伏。
追放された守昌は、その後また隈庄に帰り、城主には戻れなかったが隈庄で死んだという。
また守昌の子は僧になったとも言われている。親直は新しい城主として甲斐親教を置いた。
御船甲斐氏と隈庄甲斐氏の戦いはこれにて決着をみた。


御船甲斐氏は甲斐親直死去後、甲斐親英が家督を継ぐ。
しかし甲斐親直からの遺言を守らず島津氏と戦い、破れて降伏する。
(阿蘇氏も島津氏に降伏し、一勢力としての阿蘇氏はこれにて滅亡する。)
その後は肥後国衆一揆に参加するが、またも破れて敗死した。

その死に際についての逸話が嘉島町に残る。

親英には男子は無く、これにて御船甲斐氏は断絶した。
日向に残った甲斐氏も、
新たに日向を治める事になった大名高橋元種と三田井氏が対立した折、
甲斐宗摂は高橋氏に従い主君三田井親武を裏切り、打ち取った。
しかしその後、高橋氏は甲斐党の粛清を始め、
甲斐宗摂や甲斐秋政(血縁関係は不明)を打ち取られる。



こうして戦国を駆け抜けた甲斐氏は、その役目を終えた。


甲斐氏は戦国と共に去った一族である。
そんな甲斐氏の限りなく少ない資料からまとめた貴重な書籍になる。

資料の関係からか、甲斐親直中心になってしまい、
日向甲斐氏の動向を描いた文章が少ないのが残念ではある。
資料が思う程集まらなかったのだろうか。

内容はやや不親切で地名や人名、肥後に対する理解が多少は無いと読めない。
新書の歴史本と比べて読者を選ぶ傾向が強く、
また広く日本で広く読まれる本として書かれていない。つまり、基礎学習必須の本。
万人向けでは無い部分はネックである。

肥後戦国期を理解をより深化させるためにこの本を読んだ訳だが、読む価値はあった。

混沌としている肥後の情勢下で、肥後を動かしている甲斐一党。
限られた資料から、甲斐氏の足跡を丁寧に洗い出し、
後世に残すという大きな役割をこの本は果たした。
私も知らなかったが、広範囲に広く存在した甲斐一党は、
その土地土地で国人として成長し、その地域の領主としての役割を演じる。

有名な甲斐親直、親英の親子以外にも隈庄や高千穂で甲斐一党は
その勢力を繁栄させて、時代と共に滅んでいった。

そんな儚い国人一党をの痕跡が書籍として読めるのは素直に嬉しい。

この書籍の初版は1988年。この30年の間に、
新たな資料の発見によって、甲斐一党の歴史が豊になっている事を願いたい。

資料編には現代訳された古文書が収録されていて、
後世の歴史家にとってもあらがたいものに仕上がっている反面、
断片的な情報が得られないもどかしさを感じる。

もしも貴方が、肥後戦国期に興味があるならば、読んでみよう。

そして、ようこそ。郷土史沼へ。




……実は絶版になってはいない為、
公式サイトにて新品が購入可能だったりする。




なってこったい。

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