独断と偏見とちょっとしたスパイス 68
令和元年の人生ゲーム 麻布競馬場
─上位数パーセントの憂鬱─
Amazonより引用
私は通信制の大学・放送大学に通っているだけど、
ある時カルチャーショックを受けた事がある。
あるスクーリング(面接授業)での事。
そのスクーリングは大学内でも特に人気の科目で全国から応募が来るぐらい人気の科目で、それこそ関東圏からも学生が来るほどだった。年齢層も様々ながらも高齢者から私より若い「Z世代」も数人いた。そして話をしてみると明らかに私よりも知識量や発想の豊かさ、経験、社会に対する解像度の高さで、明らか自分を凌駕していた。
ここまでの差を見て、最早何も言えなかった。
残酷な程に明確な断絶を、ここに強く意識させられた。
都市圏と地方圏の圧倒的な情報の格差。
貧富だけではない。法律で明文化もされていない階層社会がここにあった。
私は通っていた高校は熊本市内から凄く評判の悪い町にあった。そして、そんな地元の中でも頭が悪い高校と評判が悪かった。実際自分も同級生の中にはアナログ時計の見方も分からないクラスメイトがいて愕然とした事もある。でも私は高校の友達も、そして地元に残っている友達も好きだ。
ただ、私が子供の時の選択をもう少し真剣に考えていたら。
自分のあの「Z世代」みたいに成れたのかなって思った。
地方という階層で、限られたエリアでしか生きられない人間になってしまったが、もし仮に勉強して関東圏の有名大学に進学し上京、そして就職していたらまた人生が変わっていたのかなって、金銭面でも知識面でもより今よりも豊に。
考えたって虚しいだけなのに。
さて、今回取り上げるのは『令和元年の人生ゲーム』。
著者の麻布競馬場さんはTwitter文学の1ジャンル「タワマン文学」の書き手の1人として知られている。そもそもタワマン文学とは何ぞや。という事でウィキペディアより一部引用する。
渡辺祐真によると、「時に成功者の証として持ちあげられ、時に資本主義の権化として槍玉に挙げられるタワーマンションを舞台に、現代日本の格差や嫉妬、生きづらさを描く作品群」と定義される。
地方民からするとやっぱりタワマンって富の象徴。成功者。お金持ち。って感じ。何したら住めるのか聞いてみたい。しかし、タワマン住民って言われる人々にも苦労はある。それに限らず社会とのギャップ。人間関係。日常生活の苦しみと悩みは沢山ある訳で、そう言った苦しみを題材に現代社会を描いた作品と言ったらいいのだろうか。ちなみに自分が過去に読んだタワマン文学をTwitter上で探したが見当たらなかった。
著者の麻布競馬場さんは慶応義塾大学卒という学歴を持ち、サラリーマンをする傍らで小説の執筆を行っている。その経験からか細部にリアリティがあり心理描写は生々しい。タワマン文学ってストーリー性よりも各登場人物の心理描写に力を入れたジャンルなので、この生々しさがいい。元々熱心なファンでもなければタワマン文学を好んでみる人間でもないが、たまたま「Kindle unaided」で配信されていたので、話題作りの一環として読んでみる事にした。
本作は計4篇の短編集になっていて、各話事に主人公の職業や舞台、立場は変わっている。
最初は大学のサークル内を舞台にした話「平成28年」から始まり、新卒に人気なメガベンチャー企業「平成31年」、エリートが集まるシェアハウス「令和4年」、岐路に立たされた下町の老舗銭湯「令和5年」へと移る。
その4篇に必ず登場するのが沼田という男。彼はその勤勉さとは裏腹に時には毒を吐くし、無気力で周りを白けさせる事を平気で言ってしまう人間だ。しかし、各主人公達に言動や行動を通して多くの助言を与える、ある種の狂言回しと言った役目がある。
そして、短編のタイトルを見て分かる通り、作中の時間は進んでいる。その時間変化と共に変わりゆく影の主人公・沼田の在りようを見て行くのもこの作品の魅力だろう。是非注目して読んでみて欲しい。
正直主人公達にはあまり共感出来なかった分、沼田にわりと感情移入しながら読んでいた。彼は基本的に仕事に対してネガティブで、がつがつ働く事を良しとしない。でも一方で与えられた仕事はそつなくこなす。優秀な無気力人間だ。しかしその能力とは裏腹に主にZ世代の評価が微妙な所が切ない。最初こそ主人公やZ世代に対するアンチテーゼみたいな役割かと思いきやそんな訳でもない。彼もまた重たい感情を秘めたままそして壊れてしまった人間で、人に依存したまま大人になれなかった子供の様にも感じた。回りの期待には応える一方で、自分の意思表示ができない。思春期の子供みたいな男。真面目に思うのだけど、ホワイトカラー以外と職に就いていれば職場の神と崇め奉られただろうに。結局ほとんどの人間が自分の生きやすい所に住めないよねって、沼田を見ながら思った。
各主人公や沼田の持つ問題って結局どこまでもコミュニケーション不足に由来するもの。私達の世代って喧嘩とか基本しない代わりに、無理と思った人とは「静かに」に疎遠となったりする。「個性を大事に」と教育を受けた私達は、受け入れられない「個性」からは離れる事で自由になった。代わりに他人と対話を通して分かり合う事が出来なくなった。コミュニケーション不全から来る関係の不協和音に対して、反発しない。ただ静かに離れる。
だから救われない。
そんなZ世代を作中では露悪的に描かれている。家族を含めた他人とは上辺だけの関係性で、その癖それなりの関係性を相手に求めている。軽薄な、そしてどこまでもどこまでも薄っぺらい行動原理。そして肥大する自己愛から来る生きにくさ。この救われようのない感じ。
虚無さを感じてしまう。
自分の中でこの作風に気持ち悪さを感じアンチが生まれ、また一方で世代ならではの他者との距離感への苦悩に対して親密感を感じてもいた。
主人公達はみな同世代の受験競争を勝ち抜いた上位数パーセントにも満たない彼らの憂鬱。「知らんがな。」っていう気持ちもある一方で、今まで弱者ばかりに焦点が当てられ続けていた創作の世界で社会の勝ち組と思われている人々の憂鬱に焦点が当てられているのも、また面白いと思った。
誰もが苦しみを露わにできる時代。苦しみに学歴も収入も関係無かった。
今まで読んでこなかった系統の小説だった。
作品を通して不快さを感じる一方で、同世代の価値観に触れられる機会となった。最初でも書いた通り地方と都市部で比較にならない情報格差がある中で、都市部に住む同世代の価値観に触れる機会は少ない。その中で地方民からすればリベラル的な、でも都市部ではベーシックな発想を知る事が出来た。今では地方よりも都市部の方が人口の多い世界になり、価値観は非人道的なペースでく変わってゆく。その中でタワマン文学で可視化された永遠に解消される事は無い「生きにくさ。」は、今の時代を象徴しているのかもしれない。
公式サイト
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