ジョーカー  ─格差、持病、生い立ち、大都市の底で男がジョーカーへと変貌する─

2024年9月6日金曜日

トッド・フィリップス ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ 海外映画

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独断と偏見とちょっとしたスパイス  73


ジョーカー 
─格差、持病、生い立ち、大都市の底で男がジョーカーへと変貌する─




フィルマークスより引用




10月31日に熊本の繁華街に出ると、無数のコスプレ仮想集団で現れる。
そう、ハローウィンだ。仮想してバカ騒ぎするだけのイベントなんだけど、あれってすごいよね。街全体が浮かれててさ、正直街うろうろするだけで結構楽しい。お祭りみたいに実行委員会がある訳でも無いから、誰かが取り仕切っている訳でもない。だからめっちゃカオス。何なら普通に高校生位の人ストゼロをストローで飲みながら歩いてた。みたいな話も聞くし、族のバイクがコール切ってはパトカーに追いかけられているヤツなんて1人や2人じゃない。もう滅茶苦茶。その内校則とかでハローウィン参加禁止。みたいなものも出来るじゃなかなって思う。藤崎宮の秋の例大祭参加禁止って自分の高校の校則にはあったし。それでよく見かけたコスプレのひとつが「ジョーカー」。比較的準備のしやすさが人気の秘訣なのかも。強烈なヴィランのイメージもまた魅力よね。バットマンの永遠のライバルで邪悪な敵。正直バットマンシリーズは自分はちゃんと見たわけでも無いのだけど、バットマンに真っ向から戦う悪の化身。という事は知っている。強烈なキャラクター性ってもう原作を知る、知らないを超えた存在になるよね。そこが凄いなって思う。原作を知らなくても認知されたキャラクターは強い。



さて今回とりあげるのは『ジョーカー』。当時かなり話題になった映画。
犯罪を教唆する内容だった事もあり、現実の社会問題を重ねられより騒がれた。日本でよく上げられる問題。「無敵の人」。これは元々は社会から孤立してしまった結果、未来への希望を失い、犯罪をやった所で影響もない、犯罪を犯すハードルが低くなった人の事を指すネットスラッグだった。それが現実世界でもその様な境遇の人間によって様々な悲劇が繰り返された結果、わりと現実世界でも普及した言葉になったと思う。

最近だとバットマン3部作を始め、今までちゃんと『バットマン』シリーズを見た事なくて、だから『ジョーカー』も敬遠していた。だって最近のマーベルとかの映画ってわりとドラマシリーズや過去の映画シリーズとかを見た事を前提に話が進んでいる節があるから。やっぱアメコミ原作の映画って敷居の高さを感じている。日本とかでもマルチバース化したガンダム宇宙世紀とかもそうだけど。あれも新規が入りにくい印象があるよね。だから話題作ながら見るのも躊躇していたけど、友人からあまり過去のバットマンシリーズとの繋がりも薄いから見たらいいと進められて見る。見て良かった。荒廃した社会で台頭する悪の物語で、ヴィラン誕生物語としてとてもドラマチックな作品だったからだ。そしてある意味社会の時勢に乗った映画とも言えるかもしれない。


物語の舞台は1981年のゴッサムシティ。
突然不意に笑い出す病気を患ったアーサー・フレックは大道芸人をしながら認知症の母と2人で生活していた。しかし、治安が終わっている都市の代名詞・ゴッサムシティ。不条理な暴力は日常茶飯事で、痛みや苦しみに耐えながらアーサーは細々と生きている。彼には夢があった。コメディアンとして大成する事。そして、トークショーの司会を務めているマレーの様な男になる事だった。しかし、彼に降りかかった不条理はやがて彼の人生をより暗い世界へと誘うものだった。


映画の内容は陰湿なクライムムービーなんだけど、まるでヒーロー映画の様な爽快感がある。『水戸黄門』とか『暴れん坊将軍』とかのような勧善懲悪物みたいな。そんな明るい爽快感。なんという矛盾だろう。個人的に作品に陰険さは感じる一方で、例えば『闇金ウシジマくん』で描かれた社会の片隅に生きる人々の荒廃した世界と、読者に精神的苦痛をもたらす様な露悪的表現とは、またちょっと違った印象。見ていてしんどくないんだよね。わりと結果を知った上で見ているからかもしれいけど。ある意味ワルのサクセスストーリーみたいな節もあるし。

アーサー・フレックの地獄めいた状況が淡々と描かれた前半、アーサーを苦しめる周囲の人間の振る舞い。状況を刻一刻と悪化させるアーサー自身の選択と悪化する精神状態。それが後半。アーサーはたった1度の殺人をへて、弱者は強者へと成りあがる。自身の過去や母親の秘密を知り、ついに限界が迎えたアーサーは狂人ヴィラン・ジョーカーへと変貌し、自身を苦しめた人間たちへと復讐にひた走る。街を、夢を、家族を、全て、全て、全てぶち壊していく様はもう痛快。エクスタシー感じるよね。ある意味自傷行為なんだけど、行くとこまでたどり着いた男の終着点としてこれ以上は無い。芸人としても、男としても弱さが目立っていたアーサーが大勢の人間を殺し、アーサーが焚きつけた火はゴッサムシティに大暴動を起こすに至った。ダークヒーローとして崇められ、悪人の英雄にまで成りあがった。そこには弱弱しいアーサーでは無くて、ジョーカーがいる。アーサーがジョーカーへと完成していく物語として、これ以上は無い物語だったと思う。

80年代らしいレトロな音楽が映画に独特な雰囲気を与えていたけれど、個人的は光を使った演出が凄いと思った。特にアーサーがジョーカーになった日の朝のシーン。今まで夜のシーンや薄暗いシーンが多かったのが、ここでは対照的に朝日のクリーンな光が目立っている。ヴィランに似つかない朝日。でもアーサーとして縛られていた物からついに解放された、そんな門出の日にふさわしい感じもする。


今ネットでは「無敵の人」に代わって「弱者男性」という言葉が生まれ、広く使われるようになっている。これは文字通り、社会において経済的、社会的に弱い立場にある男性を指した言葉で、私の嫌いな言葉の一つだ。文字通り「弱者男性」だったアーサーがジョーカーへと変貌し、社会に混乱と暴力を撒き散らすカオスの権化となる。このストーリーラインが、この映画を単純な娯楽作品では無くて、社会派映画に押し上げた要因なんだと思う。社会に対する不満、格差、差別の問題は未だ是正される見込みも無く、怒りだけがSNSで増幅される現在。現実社会にもジョーカーが生まれるのでは無いか。そういう恐怖感が見ていてあった。第一次世界大戦敗戦後のドイツから、その後の政治の混乱と世界恐慌によるカオスからナチスドイツが台頭した様に。もちろん『ジョーカー』の舞台となった1981年にはスマホもSNSも無い。でもこれがもし2024年だったら。ゴッサムシティはもっと荒れていたと思う。それこそ「灰燼に帰す」と言われる位に。「社会に対する警告」をこの映画から感じた。福祉の問題は未だ多くの事柄を抱えている。



面白い映画だった。内容が内容だけに人には進めにくい作品ではあるものの、現代社会の抱える問題を端的に描いた、社会的な映画だったと思う。社会派の映画って作家性が出る分、説教臭かったり、思想が強すぎたりで敬遠しがちなんだけど、シンプルに面白く、えげつない映画が生まれ世界で評価されてた。という事は、2010年代後半の世界では弱者に対する扱いと不満には国境が無く、どの国も同様の問題を抱えている。という事に他ならないのだろう。インターネットの発展によってどの国の社会問題を知れる様になって、むしろ海外に対する希望みたいなのが無くなってしまった。希望の少ない社会で、社会に絶望し、社会に報復しようとする人種に我々はどのように考えるべきか。未だ答えの糸口は見えない。

10月に『ジョーカー』の2年後を描いた『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が公開される。こちらも是非チェックしたい。

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毎週金曜19時更新。 目に留まった創作物にレビューを書きます。批評家では無いので、凝った事は書きません。文章は硬いめだけど、方針はゆるゆるです。よろしくです。

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