羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩

2024年3月22日金曜日

黒田基樹 中世から近世へ 平凡社 歴史書

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 独断と偏見とちょっとしたスパイス 63


羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩   黒田基樹
─権力の失墜、茶々の憂鬱、混乱の家中、片桐の決断─





公式サイトより引用






私はこの本を読んだ時に“キーストーン種”という言葉を連想した。

キーストーン種というのは主に生態学の分野で使われている言葉だ。

例えば生態系において個体数自体はあまり多くない捕食動物がいるとする。
仮にその捕食動物を排除すると、今度は捕食されていた生物種内での生存競争が激化し、
一部の繁殖力の弱い種が淘汰されてしまい生物多様性が失われてしまう。

捕食されていた生物の中で個体数の多い種が捕食される確率も高い訳で、
それが捕食される事で、空いた資源が個体数の少ない種に分配される。

結果生物の種類は増えて、生物多様性が保たれる。という概念だ。

具体例としたはラッコ等が挙げられる。


本歴史書で取り上げられた片桐且元は、豊臣家の重臣であり、要石であった。
豊臣家から徳川家へそのパワーバランスが崩れつつあった現状、
もはや態勢は決しつつある現状でよく主家に仕えた。
しかし、豊臣家家中の統制が弱まりつつあった中で力を持ち過ぎた。

そこに高度な政治問題も絡み、事態は急転直下する。
且元暗殺計画を発端とする家臣同士の対立は、
家中内での対立は主君である茶々・秀頼の不信へと繋がり、
結果且元は大阪城を退出。主戦派が多数となった豊臣家は滅亡への道を歩む事になる。



さて、今回取り上げる書籍は歴史書『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』

この本では淀殿の名でも知られる豊臣秀吉の側室で豊臣秀頼の母・茶々と、
秀吉時代からの家臣で大坂の陣直前に徳川家へと所属を移した片桐且元
両者でやり取りされた書簡資料を中心にその関係性と、大坂の陣の直前の1614年。
かの有名な方広寺鐘銘事件を切っ掛けに豊臣家臣団内での深刻な対立が発生し、
それを切っ掛けに且元が大坂城退去する事となった9月18日~10月1日。
この2週間にスポットを当てる。またそれと合わせて時代背景や政治情勢の解説も入る。


関ヶ原の合戦後も日本は建前上豊臣家を中心とする豊臣政権が維持されていたが、
豊臣家では有力一門衆が不在であり当主の秀頼もまだ幼い一方、徳川家康は事実上の“天下人”になり大名の領地宛行権の掌握や江戸幕府の成立と、徳川家の豊臣政権からの独立傾向がより鮮明になる。とは言え未だ江戸幕府の権威は盤石では無く、不安定な状態が続いていた。また、徳川家も立場上豊臣家に所属する形を取っていた。このように当時の日本には豊臣政権と江戸幕府。2つの政府があった事になる。この事を『二重公儀政権論』と言う。

その頃30代で豊臣家の舵取りをする事になった茶々が気鬱(今でいう鬱病か)していた。高度な政治問題が山積みで、秀頼は幼く。頼れる家臣も少なかった。また豊臣政権は秀吉の死ぬ前から秀次の粛清、朝鮮出兵、伏見の地震と、安寧とは程遠い社会不安が広がっていた。豊臣家そのものに有力な一門衆は不在で、加藤清正や黒田官兵衛と言った家臣は、国持大名として豊臣家臣団から独立してしまっていた。ここは書籍でも紹介されているポイントであり、私自身盲点だった。よく大坂の陣で豊臣方に味方しなかった豊臣恩顧の大名がいる訳だが、彼らは大名として領国の運営として回る立場になった以上、大坂に常に居住し直接仕える事が出来るはずが無い。そもそも江戸幕府の幕藩体制は幕府を中心とする中央体制で、各地を領有する大名は言うなれば江戸幕府の官僚である。多くが西軍に属した五奉行は関ケ原の戦いで失脚し、領地宛行権も失う。これにより恩顧の大名も含め大名を統率する力を豊臣政権は早い段階で喪失してしまったと考える方が自然だろう。


有力家臣の独立していく現状で茶々がすがった家臣こそ、且元であった。
片桐家は元々浅井家に仕えた家系で、主家滅亡後は秀吉に仕えた。
茶々も元々は浅井長政の子であるから、茶々は実家を失い、
その後ろ盾を持たない中で近い境遇を持った且元は信頼されたのだろう。
書籍内ではこの様に紹介されている。



  そうして 本 文書 でも、 消息 ① に 続い て、 繰り返し 且元 が 頼り で ある こと が 述べ られ て いる。 まず、 おそらく 関ヶ原 合戦 後 の 三年 にわたる 奉公 の 有り様 は、 誰 もが 知っ て いる ほどの、 申し分 の ない もの で あっ た こと、 去年、 家康 からの 何らかの 要請 について も、 秀頼 の 面目 が 立つ よう に 解決 し て くれ た こと、 と いっ た こと が あげ られ て いる。   そして、 今回 の「 申し 事」 について も、 茶々 と 家康 との 関係 を 取り直す こと、 その ため に 家康 が 大坂城 に 参向 する よう に 取りなす こと を 依頼 し て いる。 そして 何 よりも、 且元 を 頼る ほか ない こと を 示す ため に 記さ れ て いる のが、「 我々 然 々 敷き 親 も 持ち 候わ ず、 談合 申し 候わ ん 相手 も 候わ ぬ」 という 一文 で ある。 この 内容 は、 茶々 の 立場 を 考える うえ で 極めて 興味深い。 すなわち 茶々 は、 自分 には しっかり と し た 親 も なく、 相談 できる 家臣 も い ない、 という ので ある。 そう し て 頼れる のは、 且元 だけ だ、 という ので ある。   そして、 且元 の 秀頼 への 奉公 の 姿勢 について、「 一々 申す べき 様 無く、 海山 海山 身 にも 余り 候 べく 候、 命 限り 忘れ 難く、 朝夕 申し 候え ども」 と、 一々 いう 必要 も ない ほど、 身 に 余る もの で、 命 ある 限り 忘れる こと は なく、 その こと は 朝夕 いつも いっ て いる、 と 最大限 に 賞賛 し て いる ので ある。 且元 しか 頼る 者 は い ない、 という こと を 懸命 に 訴え て いる 内容 と いえる で あろ う。

黒田 基樹. 羽柴家崩壊 (中世から近世へ) (Kindle の位置No.1238-1250). 
株式会社平凡社. Kindle 版. 


この文章は、本書内で現存している茶々の書簡を解説しているものである。
茶々が且元の忠義を感謝している様子が纏められている。
相談できる家臣や後ろ盾を持たない茶々が、且元へとすがる様子が分かる。

この強固な関係性が後々失われてしまった事に驚きを隠せない。
またこの関係性は、他の豊臣家臣団との軋轢を生んでしまった原因の一つだろう。




方広寺鐘銘事件後の約2週間における豊臣家中の混乱。権力闘争。
これを書籍という形で深く知れた事は、大きな収穫だった。

方広寺鐘銘事件後に駿府へと交渉に向かった且元から3つの案が提示される。
  • 秀頼の江戸参勤
  • 茶々が人質として江戸に向かう。
  • 大坂城からの退去し、国替えに応じる。
この案に豊臣家中は激しく反発する事になる。


ここで前後するが、これを紹介したいと思う。
このページは慶長6年。
つまり1601年に伊達政宗の書状で秀頼の事について書かれた部分の切り抜きである。

ここ で 政 宗 は、「 総じて 私 の 願い は、 秀頼 が 幼少 の 間 は、 江戸 か さもなければ 伏見 にでも、 家康 の 側 に きちんと 置い て おい て、 何ごと も なく 成人 し た なら ば、 その 時 は 家康 の 考え 次第 で 取り立てる か、 又 いかに 秀吉 の 子 で あっ た として も、 日本 の 統治 を 執り行える よう な 人物 では ない と 家康 が 判断 し たら、 領国 の 二、 三 ヶ国 でも、 それ より 以下 でも 与え て、 分相応 の 進退 に すれ ば いい のに、 今 の よう に 大坂 に 力 なく 置い て おく と、 いずれ 世 の 悪戯者 が 出 て き て、 秀頼 を 主人 に し て 謀叛 でも 起き た なら ば、 その 者 達 の ため に、 何 も 考え ては い ない のに、 秀頼 が 腹 を 切る よう な こと に なれ ば、 秀吉 の 魂 にとって も 悪い こと に なる と 思う」 と 述べ て いる。

黒田 基樹. 羽柴家崩壊 (中世から近世へ) (Kindle の位置No.842-848). 株式会社平凡社. Kindle 版. 

このような懸念を早い段階から政宗は書いていた。
これにはある種の預言めいてものを感じる。


豊臣家家中での大きな反発から、且元が徳川家と内通したと疑われてしまう。
当時の豊臣家で財政と外交を担っていただけに、その反発も大きかったのだろう。
やがて大野治長・織田頼長両者による暗殺計画がある事を織田信雄から知らされた且元は屋敷に籠り兵士を入れて、防衛体制を整える。その余波により対立していた織田有楽斎屋敷も武装を始め、大坂城は内乱にも近い状態が形成されてしまう。茶々と秀頼はこの状態を収拾すべく、説得の書簡を送り、最終的には起請文を且元へと送ったりと、且元の身の安全保障を約束する等の手は打つが武装解除に失敗。やがてこの事態に対して茶々は怒る。

  ここ で 茶々 は、 且元 に対し、 二 ヶ条 の 命令 を つきつけ て いる。 一条 目 は、 且元 が 理由 は どう あれ、 屋敷 に 軍勢 を 入れ た こと は、 明確 に 主人 への 敵対行為 で あり、 これ を 決して 認める こと は でき ない として、 これ まで 且元 を 疎略 に し ない として、 身上 を 保証 する と いっ て き た けれども、 こういう 態度 を とる からには、 それ は 実現 でき ない、 と する もの で、 いわば 且元 の 身上 の 保証 は し ない こと を 通知 し た もの に なる。   次いで 二 条目 では、 且元 に対する 処分 を いい 渡す もの で、 出家 し て 寺院 に 隠遁 する こと、 屋敷 などを 嫡子 の 出雲 守 元 包 に 明け渡す こと、 すなわち 家督 を 元 包 に 譲る こと、 且元 が 担当 し て いる 大坂城 での 所々 の 門番 を 引き揚げる こと、 すなわち 担当 し て いる 門 の 番所 を 引き渡す こと を 命じ て いる。 そう すれ ば 且元 の 行為 を 赦免 する、 と し て いる もの に なる。

黒田 基樹. 羽柴家崩壊 (中世から近世へ) (Kindle の位置No.2404-2411). 株式会社平凡社. Kindle 版. 

そして武力衝突こそ避けられたものの、且元を処分するという選択に至る。
豊臣家を戦国大名と書くのは語弊があるが、家臣の身の安全が保障されない現状。
これはもはや大名と家臣との主従関係の崩壊だと私は感じた。そして、徳川家とのネゴシエーターであった且元を排除するという事は徳川家との交渉の打ち切りと対立の意志を内外に示す行為であると、茶々や秀頼を始めとする豊臣家のトップ層が認識していなかった事に驚きを隠せない。それほどに豊臣家の人材が払底してしまったのだろう。駿府から帰還してから僅か2週間程の対立を期に且元は大坂城を退出した。それと同時期に織田信雄を始めとする一部の織田一門や家臣も相次いで大坂城から退出する。そして交渉役を失った豊臣家は、戦争への道を進む事になる。


この本を見た時の衝撃を凄まじかった。
一般的な読者も対象にした歴史書においてここまで焦点を絞った本があるとは思わなかった。呉座勇一先生の『応仁の乱』がベストセラーになって以降、歴史的にマイナーな事柄について書かれた書籍も新書で多く見かける様になり、手に取りやすくなったとはいえ、ここまで書籍で取り上げる事柄の範囲が狭い本が商業ベースとしてAmazonや書店で発売されているのだから凄いと思う。これが一般人だと見るのに様々な制限がある各地の教育委員会の編纂資料や大学の論文では無いのだからありがたい。迷わず衝動買いしてしまった。

平凡社のレーベル「中世から近世へ」は、
最新の研究結果を元に、新書でも見られない新しい視点を提示した書籍が多い。
また著者の黒田基樹先生は、主に戦国期の書籍を多く刊行されている駿河台大学の教授。
特出する点として後北条家5代1人一冊ずつ書籍として発売されていたり、または今川氏直と言ったあまり研究が進んでいない人物を書籍として取り上げたりと、今まで一般的な歴史書ではあまり見る事の出来なかった人物を、最新の研究結果を元に過去のイメージに囚われず、再構築を図られている。正直今回取り上げられた茶々は、どことなく感情的で豊臣家を滅ぼした人物の様に思っていたし、且元は豊臣家を裏切った人物の様に思っていた。だからこそ、両者が置かれていたその緊迫した状況。そして豊臣家家中が統率を失い、無秩序になる様は「大坂の陣」という大規模な戦役へと繋がる前の豊臣家の落日を予感させるものであったと共に、彼らがその中でこのような選択をしたのか。より理解度が深まる内容であった。そもそも豊臣家中が事実上の内乱状態であり、武力衝突までエスカレートし兼ねない状況と知ると、且元の選択により重みがあった事を痛感させられた。そして秀吉死後から江戸幕府の成立と大坂の陣へと至るプロセスは不透明で分かりにくい一方で、学び甲斐のある課題だと強く思う。この辺の政治史についてはより深堀したい。


良かったら是非とも読んでみて欲しい。
豊臣家の統率が失われ、もはや主君の意思疎通が出来なくなった様は、
豊臣家が何故滅びたのか。それを理解するには余りあるものでした。


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